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国旗損壊罪はなぜ危険なのか?表現の自由と創作文化を脅かす法律の問題点

国旗損壊処罰法が創作文化を萎縮させる 国旗を破ったり、汚したりする行為を見て、不快に感じる人はいるだろう。私も、何をしても構わないと言いたいわけではない。 だが、そこで国家が出てきて、「不快に感じる人がいるから刑罰を科す」となった瞬間、話は別になる。 「国旗の損壊等の処罰に関する法律」は、単に旗を壊した者を罰する法律ではない。何を国旗と呼ぶのか。何を不快と呼ぶのか。どこまでを表現として許すのか。その判断を、捜査機関や検察、裁判所に委ねる法律である。 そして、その境界線は驚くほど曖昧である。 私自身、祝日に国旗を掲げることをやめた。もちろん、掲揚した国旗が少し汚れていたからといって、それだけで直ちに国旗損壊罪に当たるわけではない。そのことは理解している。 それでも、うっかり汚れたまま掲揚してしまった場合、それを見た誰かが問題視し、通報する可能性は否定できない。実際に処罰されるかどうかとは別の話である。警察から事情を聞かれたり、近隣とのトラブルになったりするリスクは残る。 そのリスクを考え、私は掲揚そのものをやめたのである。法律が直接禁止しているからではない。曖昧な法律が存在することで、余計なトラブルを避けるために、自分から行動を狭めることになったのである。 これこそが、法律による萎縮効果の実例である。 その旗、本当に「国旗」なのか 第一条は、国旗を次のように定義している。 「国旗」とは、国旗及び国歌に関する法律に定める国旗として用いられていると社会通念上認められる有体物をいう。 まず引っかかるのが、「社会通念上認められる有体物」という表現である。 市販されている正式な日の丸だけが対象になるわけではない。寸法や色彩が国旗国歌法の制式に完全に一致していなくても、一般の人から見て日の丸、あるいは日本国旗として使われていると認められれば、対象になり得る。 自作の旗。スポーツ応援用の小旗。抗議活動で使われる布。舞台上の小道具。こうしたものまで、状況次第で「国旗」と判断される余地がある。 法務省は、アニメや漫画、ゲーム、生成AI画像の中に描かれた日の丸は、デジタル上の表現であり「有体物」ではないため、現在の法律の対象外だと説明している。 しかし、ここで安心してよいのか。 画像を印刷すれば、物理的な媒体になる。旗にすれば、現実の物体になる。舞台で使えば、小道具になる。立体作品にすれば、触れることのできる作品になる。 創作の現場では、デジタルと現実の境界はそれほど明確ではない。にもかかわらず、法律は「社会通念」という言葉で、その境界を丸ごと社会の空気に預けている。 社会通念は固定されたものではない。政治状況によっても、世論によっても変わる。今日まで「単なるデザイン」とされていたものが、明日には「国旗として用いられている」と評価される可能性もある。 法律に必要なのは、空気ではない。誰が読んでも分かる基準である。 「不快」が犯罪を決める 第二条はこう定めている。 人に著しく不快又は嫌悪の情を催させるような方法により、公然と国旗を損壊し、除去し、又は汚損した者は、二年以下の拘禁刑又は二十万円以下の罰金に処する。 この条文で最も危ういのは、「著しく不快又は嫌悪の情を催させるような方法」という部分である。 何が「著しく不快」なのか。どの程度で「嫌悪」なのか。誰の感情を基準にするのか。法律は何も具体化していない。 法務省は「一般通常人から見て、ひどく快くないと感じさせる方法」と説明している。しかし、それは言葉を言い換えただけであり、処罰の境界を示した説明とは言い難い。 「著しく」という言葉が入っているから大丈夫だという見方もあるだろう。だが、著しいかどうかを判断するのも人間である。警察官であり、検察官であり、最終的には裁判官である。 第二条第二項は、行為の外形、周囲の状況、その他の客観的な事情を総合的に勘案すると定める。 一見すると、客観的な判断を求めているように見える。だが、「その他の客観的な事情」とは何か。「総合的に勘案」とは、どの要素をどの程度重視するのか。 結局、判断者の裁量に委ねられている。 同じ行為でも、駅前で行えば処罰対象となり、自宅の庭で行えば対象外となる可能性がある。観客の人数、場所、時間、周囲の雰囲気によって、結論が変わる。 これは、国民にとって事前に処罰ラインを予測できない法律である。 表現の内容を見ないという矛盾 法務省のQ&Aは、「著しく不快又は嫌悪の情を催させる方法」に該当するかどうかを判断する際、行為者が伝えようとした表現やメッセージの内容は考慮しないと説明している。 しかし、それは本当に可能なのか。 国旗を破る。燃やす。踏む。黒く塗る。バツ印を付ける。 こうした行為は、単なる物理的動作ではない。政治的な意味や、社会への抗議の意味を持つことが多い。行為の外形と、表現の内容は簡単に切り離せない。 「内容は見ない」と言いながら、表現の意味を帯びた行為の外形だけを処罰する。それは、表現の自由に対する規制を、別の言葉で言い換えているだけではないのか。 しかも、この法律には「日本国に対して侮辱を加える目的」という要件がない。 外国国章損壊罪の場合、刑法92条は外国に対する侮辱目的を必要としている。さらに、外国政府の請求がなければ公訴を提起できないという制限もある。 一方、この法律には、そのような目的要件も、特別な請求要件もない。 自己所有の国旗であっても、政治的抗議や芸術的表現として行ったものであっても、条文上は当然に除外されないのである。 第三条は単なる注意書きである 第三条には、表現の自由に配慮する文言がある。 表現の自由その他の日本国憲法の保障する国民の自由と権利を不当に侵害しないように留意しなければならない。 これを根拠に、「表現の自由は守られている」と説明する人もいる。 しかし、この条文は「表現として行った行為は処罰しない」と定めていない。「不当に侵害しない」と書かれているだけである。 では、何が不当なのか。どこまでなら許されるのか。判断基準は書かれていない。 第三条に違反したからといって、逮捕できなくなるわけでもない。起訴できなくなるわけでもない。処罰対象から自動的に外れるわけでもない。 法務省は、政治的・芸術的表現であれば、刑法35条の「正当行為」として違法性が否定される場合があると説明している。 だが、「場合がある」にすぎない。表現であることが、最初から明確な免責になるわけではない。 捜査され、取り調べられ、起訴され、裁判で争って、初めて正当な表現だったと判断される可能性がある。そのような制度の下で、誰が安心して表現できるのか。 「国民感情」を刑罰で守るということ この法律が保護しようとしているものは、国旗という物体そのものではない。所有権でも、具体的な身体被害でもない。 附則第二項は、法律の見直しにあたり、 国旗を大切に思う国民感情を保護するのに必要かつ十分なものとなっているか という観点から検討すると定めている。 ここに、この法律の本質が表れている。 国家が刑罰によって守ろうとしているのは、「国旗を大切に思うべきだ」という感情である。 しかし、人々が何を尊び、何に怒り、何を嫌悪するかは、本来、個人の内心に属する。国旗を尊重する人もいれば、国旗を国家や政府の象徴として批判的に扱う人もいる。 その違いを認めることこそ、思想・良心の自由であり、表現の自由である。 多数派が不快に感じる表現を、少数派が行えば処罰する。そんな社会へ進む危険がある。 刑罰は、誰かの感情を満足させるために存在するものではない。 附則に書かれた一文の恐怖 附則第二項は、施行から三年を目途に法律を見直すとしている。 検討対象として、わざわざ次の行為を挙げている。 国旗を損壊する状況に係るインターネット上の映像 損壊・汚損された国旗を公然と陳列する行為 これに類する行為 現在の法律では、私室で国旗を損壊し、その動画を後から配信する行為は、この罪の対象外と整理されている。一方、ライブ配信中の損壊は、「公然と」に該当し得るとされている。 すでに損壊された国旗を展示する行為も、展示だけで直ちに処罰する規定ではない。 では、なぜ附則に書いたのか。 将来的に、ネット上の動画投稿、画像の拡散、損壊された国旗の展示、さらに「これに類する行為」まで規制対象に加える議論へ進むためである。 もちろん、この附則だけで直ちに処罰範囲が広がるわけではない。新たな犯罪を作るには法改正が必要である。 それでも、法律自身が将来の拡張候補を列挙している事実は重い。 これは単なる見直し条項ではない。表現規制を拡張するための足場になり得る条項である。 創作文化は「逮捕されない」だけでは守れない アニメ、漫画、ゲーム、映画、舞台、現代美術。これらの表現では、国旗が歴史や政治、戦争、国家、権力を象徴する記号として登場する。 国旗を掲げる人物を描くこともある。国旗を破る場面もある。国旗にバツ印を付ける場面もある。架空の国家の旗をデザインし、現実の国旗と似た意匠を使うこともある。 表現の自由とは、誰も不快に感じない作品を作る自由ではない。誰かが不快に感じる表現を含めて、作品として発表する自由である。 法律が存在するだけで、出版社やゲーム会社、配信プラットフォームはリスクを避ける。作家やクリエイターも、「この描写は通報されないか」と考える。 最初に起きるのは大量逮捕ではない。 編集会議での却下である。企画段階での修正である。広告表現からの削除である。作者自身による自主規制である。 表現文化は、禁止された瞬間に死ぬのではない。危険かもしれないと感じた瞬間から、少しずつ痩せ細っていく。 守るべきは国家への服従ではない 私は、国旗を損壊する行為を推奨しているのではない。 問題は、国旗に対する不快感や嫌悪感を、国家が刑罰で守り始めることにある。 国旗を尊重する人の自由は守られるべきだ。同時に、国旗を批判的に扱う人の自由も守られなければならない。 国家が「国旗を大切に思え」と命じ、そうでない表現を「国民感情への侵害」として処罰し始めれば、国旗は国家の象徴ではなく、国家への服従を測るリトマス試験紙になる。 この法律の危険性は、明日からすべての漫画家が逮捕されることではない。 何が国旗なのかが曖昧で、何が不快なのかが曖昧で、どこまでが表現なのかも曖昧なまま、将来の拡張だけが附則に書き込まれていることにある。 そして私は、祝日に国旗を掲げることさえやめた。少し汚れたまま掲揚してしまった国旗を、誰かに問題視され、通報され、警察から事情を聞かれる。そんな可能性を考えたからである。 実際に処罰されるかどうかとは別に、近隣とのトラブルを避けるため、自分から掲揚をやめた。 この萎縮が、創作者にも起きる。 「国民感情」を理由に表現を処罰する社会は、創作文化にとって極めて危険な社会である。 必要なのは、感情を刑罰で守ることではない。国家や国旗を含め、あらゆる権力や象徴を批判し、笑い、描き、問い直す自由を守ることである。 それが失われたとき、傷つくのは国旗ではない。 日本の表現文化そのものである。 関連リンク法務省Q&A刑法第92条関連記事国旗損壊罪とは何か|表現の自由と国家の尊厳を考える表現の自由に関する記事

デマと表現の自由──SNS時代の責任と民主主義を考える

自由は無制限に自由だが、その自由には責任が伴う──デマッター社会と政治の居場所化 東日本大震災では、Twitterが情報インフラとしての強さを見せた。停電や通信途絶の中でも、人々は生の情報を共有し合い、助け合った。いくつかのデマもなかったわけではないが、当時のTwitterは確かに社会の神経系として機能していた。 しかし、いまのX(旧Twitter)を見ていると、同じ役割を果たせるかは疑問だ。悪貨が良貨を駆逐してしまった。信頼よりも反応が優先され、共感よりも敵意が可視化される。かつて人をつなげたプラットフォームが、いまや人を分断する装置になりつつある。 自由は無制限に自由である。しかし、その自由には責任が伴う。この二つを同時に語れるかどうかが、成熟した社会の分かれ道だ。 デマもまた自由のうちにある 地方議員としてSNSを使っていると、時に驚くようなデマに出会う。たとえば、選挙ポスターに蓄光塗料を使ったという事実をきっかけに、「選挙違反ではないか」といった投稿が広がった。さらには「学校から塗料を盗んだのでは」といった荒唐無稽な話まで派生した。もちろん事実ではない。 それでも、「デマを禁止せよ」とは言えない。国家や行政が「これは嘘だから発信してはいけない」と線を引くことはできないし、してはならない。それを認めれば、政権の都合で都合の悪い意見をデマとして排除できてしまう。だからこそ、デマもまた表現の自由のうちにある。だが同時に、誤りを放置してよいわけではない。 デマはデマと指摘するべきだ。しかし、国家権力がデマを禁じることはダメだ。この線引きこそ、自由を成熟させるための知恵だと思う。 責任なき自由は、他人の自由を奪う 自由には必ず責任が伴う。それは制限という意味ではなく、自由を持続させるための条件だ。他人の名誉や人権を傷つければ、法が介入し、社会が反応する。司法がそこに関与するのは、自由を奪うためではなく、自由を守るためである。責任を引き受ける覚悟がなければ、自由はやがて他人を踏みにじる暴力に変わる。 SNSでは、発信のコストは限りなく低いが、訂正や反論のコストは高い。数秒の投稿が、誰かの人生や評判を容易に傷つける。しかも多くの場合、それは悪意ではなく正義感から生まれる。正しいことをしていると信じて、他人の自由を奪ってしまう。現代のデマ拡散の怖さは、そこにある。 デマッターの心理構造──嘘と自己肯定 デマを流す人の多くは、意図的な悪人ではない。中には、社会を良くしたい、不正を正したいという気持ちから発信している人もいる。しかし、やがて事実よりも反応が目的化していく。嘘であれ、デタラメであれ、社会に影響を与えることや反応があることで、自分が存在していると感じられる。それが一時的な自己肯定感につながるのだ。 さらには収益化だ。デマや過激な言葉が拡散されるほど、広告収入が増える仕組みになっている。その構造が、発信者の承認欲求と経済的動機を同時に刺激している。 SNSはこの心理を強化する仕組みを持っている。いいねやリポストの数字が、まるで評価の証のように目に見える。注目されることが正しいことだと錯覚してしまうのは、自然な流れかもしれない。しかし、その結果、言葉が議論の道具ではなく、承認を得るための手段に変わってしまう。これがデマッター社会の根っこにある構造だと思う。 政治が居場所事業になってしまうとき こうした現象は、ネットの外にも広がっている。政治そのものが、似たような構造を抱え始めているのだ。政治は本来、意見の異なる人々が議論を通じて合意点を探す営みである。だが、SNS上では「敵か味方か」という単純な図式が支配し、政治が居場所の象徴になってしまっている。ある候補を支持することが意見ではなく、自分が仲間である証になる。批判も称賛も、政策論ではなく感情の共有で終わる。 政治が居場所事業になれば、言葉は空洞化する。政策よりも推しの物語が優先され、議論よりも同調が求められる。その空間では、デマであっても共感できる物語であれば拍手が集まる。つまり、デマは居場所を維持するための燃料になっているのだ。 そして政治家自身も、その構造に引きずられる。発信のたびに「どの層が喜ぶか」「誰が叩くか」を意識し、言葉が自己検閲される。積み重なれば、政治言語そのものが変わってしまう。この現象を私は、「政治の居場所化」と呼んでいる。 嘘に抵抗することは、自由を守ること デマや誤解には、できる限り事実で応じるべきだ。それは個人の名誉を守るためだけではなく、社会全体の信頼を保つためでもある。沈黙すれば、嘘が事実として定着してしまう。だからこそ、抵抗することは戦うことではなく、対話を取り戻すことだと考えたい。 デマを禁止するのではなく、デマを恥ずかしいと感じる社会をつくる。誠実さを称え、不誠実を軽蔑する。そうした空気が広がれば、デマは自然に力を失う。批判や風刺は自由だ。しかし、虚偽と印象操作には線を引く。それは対立を煽るためではなく、自由な言論を維持するための最低限の姿勢である。 結論 自由と責任のあいだにあるもの 自由は無制限に自由だが、その自由には責任が伴う。責任を果たすことでしか、自由は持続しない。そして責任とは、罰ではなく、自分の言葉と向き合う覚悟のことだ。嘘をつかない、誤った情報を拡散しない、他人を貶めない。当たり前のことを、当たり前に続けるだけでいい。 自由とは、放っておけば壊れるものだ。だからこそ、言葉を選び、嘘に抵抗し、誠実に語る努力を続ける必要がある。それが、自由を守るということだ。そしてその積み重ねが、やがてデマを流しても得はない、正直でいる方が尊いという空気を育てる。その空気こそが、民主主義を支える本当の力だと思う。 関連リンクインターネット上に流通する真偽の不確かな情報 - 総務省ネット選挙における選挙運動用文書図画 投票日当日の取り扱いについて

スパイ防止法の必要性と危うさ|表現の自由と冤罪のリスクをどう防ぐか

スパイ防止法と表現の自由──必要性と危うさのはざまで 目次 1. スパイ防止法の「一定の必要性」 2. 表現の自由との兼ね合い 3. 冤罪の教訓──袴田事件と大川原化工機事件 4. 法律ができてもスパイは名乗り出ない 5. 現行法で対応できる範囲と、これからの議論 6. 「スパイ防止法ができても困るのはスパイだけ」という声に思うこと 結論:安全と自由、どちらも守るために 1. スパイ防止法の「一定の必要性」 近年、国際的な情報戦が激しさを増している。サイバー攻撃や経済安全保障の観点から見ても、国家機密の保護が重要な課題であることは間違いない。日本でも、外国勢力による技術情報の流出や防衛関連施設への不審な接触が報じられ、法整備を求める声が上がっている。 私も、スパイ防止法の制定には一定の必要性があると思う。国家の安全を守るための枠組みを整えることは当然のことだ。ただし、それは「正しく運用されるならば」という前提があってこそだ。問題は、スパイ防止法がどの範囲まで適用されるか、どのような行為を処罰の対象とするかが極めて曖昧である点にある。 「国家の安全」を口実に、政府にとって不都合な情報まで機密扱いにされるおそれがある。国家の秘密を守ることと、国民の知る権利を守ることは、しばしば衝突する。だからこそ、立法の際には透明性と歯止めが不可欠だと私は考える。 2. 表現の自由との兼ね合い スパイ防止法が懸念される最大の理由は、表現の自由を脅かす可能性にある。政府や公務員の不正を取材し、報道する行為が「機密の漏洩」と見なされる危険がある。そうなれば、記者や研究者、市民団体の活動が萎縮するだろう。 「国家機密」の定義は、どこまでが正当な秘密で、どこからが国民の知るべき情報なのか、常に曖昧だ。秘密保護法が制定された際にも、報道機関が「取材の自由が侵される」と強く懸念した。スパイ防止法はそれ以上に、情報の受け手である市民の側まで影響を及ぼしかねない。 民主主義は、情報が公開され、意見が自由に表明されることで支えられている。国家が何を秘密とし、どこまで国民に知らせるのかが不明確なままでは、自由な議論は成り立たない。安全保障の名のもとに、社会が息苦しくなるような制度をつくってはならないと思う。 3. 冤罪の教訓──袴田事件と大川原化工機事件 スパイ防止法の議論で私が特に気になるのは、冤罪の可能性だ。日本の刑事司法には、これまでにも多くの誤判があった。国家が強い権限を持つとき、誤った判断が取り返しのつかない悲劇を生む。 1966年の袴田事件は、その象徴だ。静岡県で一家4人が殺害された事件で、元従業員の袴田巌さんが逮捕され、死刑判決を受けた。だが、後に証拠の捏造と自白の強要が明らかになり、再審で無罪が確定した。日本弁護士連合会によれば、取調べは深夜まで及び、袴田さんは疲労と恐怖の中で虚偽の自白をさせられたという。半世紀以上の時間を経てようやく冤罪が晴れたが、その人生は奪われてしまった。 もう一つの大川原化工機事件も忘れてはならない。2020年、噴霧乾燥機の輸出をめぐって、同社の社長らが外為法違反の容疑で逮捕された。しかし後に、それが規制対象外の製品だったことが判明し、起訴は取り消された。日本弁護士連合会はこの事件を「科学技術分野における冤罪」と位置づけている。捜査当局は「国家安全保障」を名目に企業を摘発したが、結果的に企業の信用は失われ、経済活動は大きな打撃を受けた。 もしスパイ防止法が制定され、捜査権限がさらに拡大すれば、同じような過ちが繰り返されるおそれがある。権力は常に誤る可能性をはらむ。冤罪とは、法律の誤用だけでなく、制度の設計そのものがもたらす構造的な悲劇でもある。 4. 法律ができてもスパイは名乗り出ない スパイ防止法をつくっても、スパイが自ら行動をやめるわけではない。真のスパイは、どんな法律にも巧妙に適応し、より見えにくい形で活動を続けるだろう。むしろ、表立って摘発されるのは一般市民や記者、研究者のように、政府の目に映りやすい立場の人々かもしれない。 過去の治安立法がそうであったように、「安全のため」という名目でつくられた法律が、いつのまにか異論を封じる道具になることがある。権力は一度与えられると、なかなか手放さない。だからこそ、どんなに善意であっても、国家に過度な裁量を与える法律には慎重であるべきだ。 「安心のための法律」が、結果的に社会全体を不安にするようでは意味がない。安全と自由は対立するものではなく、両立を模索する努力が必要だと思う。 5. 現行法で対応できる範囲と、これからの議論 日本にはすでに、不正競争防止法、国家公務員法、刑法の機密漏洩罪など、情報保護に関する法律が存在する。防衛秘密の取り扱いについても、関係省庁には内部規定が整備されている。まずは現行法を適切に運用し、その実効性を高めることが先決ではないか。 新たな法律を作るのであれば、現行法では対応できない具体的な事例を明らかにし、その範囲を限定すべきだと思う。「他国があるから」「不安だから」という理由だけで法を作れば、後に取り返しのつかない副作用を生む。法律は社会の不安を癒やすものであって、不安そのものを利用するものであってはならない。 また、立法過程そのものの公開性も欠かせない。どの情報が対象となるのか、誰が判断するのか、どんな場合に処罰されるのか――これらを明確に示さなければ、市民は自らを守ることすらできない。 6. 「スパイ防止法ができても困るのはスパイだけ」という声に思うこと 「スパイ防止法ができても困るのはスパイだけだ」という声を聞くことがある。確かに、国家機密を盗むような行為に関わらなければ関係ないように思えるかもしれない。だが、現実はそれほど単純ではない。 法律は、条文の文言だけでなく、その運用によって人を裁く力を持つ。何をもって「スパイ行為」とするかを決めるのは、捜査当局や司法の判断だ。もしその判断が誤れば、スパイではない人までが「疑わしい」とされ、生活を壊されることになる。過去の冤罪事件が示すように、法の誤用は個人の人生を奪う。 さらに、法律の存在そのものが社会に萎縮をもたらす。報道機関は取材を控え、市民は「何を話してはいけないのか」と自己検閲を始める。そうした空気が広がれば、権力の監視機能が弱まり、民主主義の健全なバランスが崩れる。 「困るのはスパイだけ」という言葉は、法の力を過小評価している。問題は、自分がスパイかどうかではなく、「誰がスパイだと決めるのか」ということなのだ。 結論:安全と自由、どちらも守るために 私は、スパイ防止法の必要性を否定しない。だが、それが表現の自由や市民の知る権利を犠牲にしてまで進められるべきだとは思わない。国家の安全保障は大切だが、それを支えるのは、国民の信頼と自由な言論だ。もし自由が失われれば、安全を語る基盤そのものが揺らぐ。 冤罪の歴史が教えているのは、制度が誤れば人の人生が壊れるという事実だ。スパイ防止法の議論は、単なる安全保障の問題ではなく、社会がどこまで国家に権限を委ねるかという民主主義の根幹に関わる問題である。私たちは恐怖や不安ではなく、理性と経験に基づいて考えなければならない。 安全と自由。そのどちらかを選ぶのではなく、両方を守る方法を探すことが、今の私たちに課された課題だと思う。 関連リンク袴田事件大川原化工機事件表現の自由

国旗損壊罪とは何か|表現の自由と国家の尊厳を考える

国旗損壊罪を考える——敬意と自由のあいだで 自民党と日本維新の会が、2026年の通常国会で「国旗損壊罪」を新設する方針を固めた。「外国国章損壊罪だけが存在するのは不均衡だ」との理由である。しかし、法制度の整合性を唱える前に、この罪が何を守り、何を制限するのかを冷静に考える必要がある。 外国国章損壊罪の実態 刑法92条は、外国に対して侮辱を加える目的でその国の国旗や国章を損壊した者を処罰できると定めている。ただし、これは親告罪であり、実際に適用された例はきわめて少ない。外交上の儀礼を維持するための、形式的な条項に近い。それを根拠に「自国旗にも同様の保護を」と論じるのは、やや飛躍がある。 法が守るべきは「象徴」か、それとも「個人」か 国旗損壊罪が導入されれば、日の丸を傷つける行為が「国家への侮辱」として処罰の対象になると考えられている。だが、ここで問うべきは「誰の権利が侵害されたのか」という点だ。刑法は本来、具体的な被害を救済するための制度である。国家や象徴そのものに「被害」を認定するのは、近代刑法の原則から離れる。 仮に、国旗損壊罪が外国国章損壊罪と同じく親告罪として設けられた場合、日本政府が「被害者」となり、自国民を告訴する構造になる。国家が自らの尊厳を守るために国民を刑事告訴するという関係は、刑事法の基本原則から見ても異質である。本来、刑罰は国家が国民を守るために行使するものであり、国家が自らの感情を守るために国民を罰するものではない。この一点だけを取っても、慎重な検討が求められる。 国旗への敬意は否定されるべきではない。しかし、それを刑罰によって強制するのは、敬意ではなく服従である。象徴を守ることと、思想を縛ることは紙一重だ。 「侮辱目的」条項が再び入るなら かつて2012年に自民党が提出した旧法案では、「日本国に対して侮辱を加える目的で国旗を損壊・除去・汚損した者」を処罰対象としていた。今回の連立合意で提出予定の法案の文言はまだ明らかになっていないが、同様の構成になる可能性がある。仮に再び「侮辱目的」という要件が盛り込まれるなら、その解釈のあいまいさが大きな論点になるだろう。 抗議デモで国旗を逆さに掲げれば侮辱か。芸術作品で国旗を加工すれば侮辱か。判断の基準があいまいなままでは、表現の自由を萎縮させる結果になる。表現とは文脈によって意味が変わる。ある行為が「不快」に映っても、それを「犯罪」と呼ぶかどうかは別の問題である。法が感情を基準に運用されるようになれば、理性の領域は急速に狭まる。 外国国章損壊罪も、見直しの時期にある 私は、外国国章損壊罪そのものも廃止を検討すべきだと思う。外交儀礼は外交で担保すればよい。個人の行為に刑罰を科してまで「国家間の関係」を守る必要はない。国家の尊厳を個人の自由の上に置く構造を、ここで見直すべきである。 さらには、いま「不均衡」を理由に国旗損壊罪の創設を正当化する議論があるが、外国国章損壊罪を廃止すれば、その不均衡そのものが解消される。新たな罪を増やすのではなく、不要な罪を減らす方向で整合性を取るべきだ。 「国旗を守る法」が実際に守るのは国旗ではなく、国家の感情だ。そして感情を法で扱い始めると、どんな表現も「侮辱」とされうる。それは表現の自由を損なうだけでなく、国家自身の成熟を損なう。 敬意は自由の中から生まれる 私は祝日には国旗を掲揚し、一般参賀では皇居で日の丸を振る。それでも、この法案には慎重であるべきだと思う。なぜなら、敬意とは自発的な行為であり、命令や罰からは生まれないからだ。自由の中にこそ、真の敬意が宿る。 国旗を敬う自由と、国旗を批判的に扱う自由。どちらも民主主義に不可欠な要素である。どちらかを失えば、もう一方も失われる。 結論:刑罰よりも成熟を 国旗損壊罪の新設は、社会の成熟を示すどころか、その不安を映し出している。侮辱に耐えられない国家は、批判にも耐えられない。法は感情の代弁ではなく、感情を制御する仕組みであるべきだ。 国旗を守る法律をつくる前に、国旗を掲げる自由と異論を唱える自由を、ともに尊重する社会を育てたい。それが、この国の尊厳を守る最も確かな方法だと、私は考える。 関連リンク外国国章損壊罪表現の自由

コミケ街宣に参加 国際展示場駅前 表現の自由 C100

2022年8月13日〜14日の2日間にわたりビッグサイトではコミックマーケット100が開催された。なんと100回目の開催だ。うろ覚えの記憶を辿ると私が初めて参加したコミックマーケットは1989年頃。恐らくコミックマーケット36あたり。中学校時代の仲間と同人ゲームソフトを頒布したのを覚えている。懐かしい記憶だ。 コミケに合わせて行われるのが今回のコミケ街宣だ。 このコミケ街宣はエンターテイメント表現の自由の会(AFEE)の呼びかけで、その趣旨に賛同する超党派の政治家がリレー形式でマイクを握り表現の自由に関するテーマで訴えを行う街頭演説会で、コミケ開催ごとに開催されている。 今回は先月に投開票が行われた参議院選挙に立憲民主党から表現の自由をテーマに挑戦をしたくりした善行さんを中心に応援した仲間と一緒に登壇させていただいた。テーマはさまざま。侮辱罪や刑法175条、児童ポルノ禁止法についてなど表現の自由を守るリベラルとしてのお話ができたのではないかと思う。 コミケ街宣ということで創作表現などの表現の自由が話題になりがちだが表現に優劣はない。時には見たくもないような表現を守らなくてはならない時もあるだろう。一緒に登壇したこのメンバーはそうした場面でもブレることなく表現の自由を守っていけると確信している。

国旗損壊罪で表現は規制されるのか 武蔵野市議会で公共施設の運用を確認

施行された国旗損壊罪について武蔵野市議会で一般質問を行いました。市民の表現の自由を守るため、公共施設利用時の事前審査の有無、作品への苦情・抗議があった際の対応体制、指定管理者の運用ルールなど、市の明確な答弁内容と現場の自主規制を防ぐための具体的な取り組みを報告します。

「エロ広告対策」で、どこまで表現を規制するのか

国民民主党は15日、議員立法「青少年が安全に安心してインターネットを利用できる環境の整備等に関する法律の一部を改正する法律案」(エロ広告規制法案)を参議院に提出した。 青少年インターネット環境整備法改正案の問題点 インターネット上には、性的な内容を含む広告が突然表示されることがある。とりわけ、子どもが意図せず目にする状況について、何らかの対策が必要だという問題意識は理解できる。 しかし、今回示された「青少年が安全に安心してインターネットを利用できる環境の整備等に関する法律」の改正案には、見過ごせない問題がある。 「エロ広告対策」という、誰も反対しにくい看板を掲げながら、そもそも何を「エロ広告」とするのか定義されていない。さらに、実際の条文は性的な広告だけを対象とするものではなく、抽象的な基準によって、より広い表現を規制する余地を残している。 そもそも「エロ広告」とは何なのか 改正案は、その趣旨説明で「いわゆるエロ広告」への対応を前面に掲げている。 しかし、何をもって「エロ広告」とするのか、その定義は示されていない。 裸や性行為を直接描いた広告だけを指すのか。水着や下着姿も含むのか。身体の一部を強調した表現、恋愛漫画の広告、性的な言葉を連想させるコピーはどうなのか。芸術、医療、性教育に関する表現との境界も明らかではない。 「エロ」は法律用語ではなく、人によって受け止め方が大きく異なる俗称である。ある人が性的だと感じる表現を、別の人は恋愛表現、芸術表現、あるいは単なる身体表現と受け取ることもある。 つまり、この改正案は、対策の看板となっている言葉の範囲すら定めないまま、法的な規制の仕組みを先に作ろうとしている。 しかも、実際の条文では「エロ広告」という言葉を使わず、「青少年有害情報」や、それに「準ずる情報」という、さらに広く抽象的な概念に置き換えている。 「エロ広告を規制する」と説明しているのに、何がエロ広告なのかを定義せず、条文ではエロ広告よりはるかに広い概念を対象にする。これが、この改正案の最も基本的な問題である。 「誰が見ても明らかなエロ広告だけが対象だ」という説明では足りない。法律とは、誰が見ても明らかな事例ではなく、境界線上の表現をどう扱うかを決めるものだからである。 改正案は何をしようとしているのか 改正案は、一定規模以上のデジタルプラットフォームを国が指定し、広告に「青少年有害情報」が含まれる場合、次のような対応を求めるものだ。 青少年の閲覧を防止する措置について、実施要領を作成・公表する 国民からの通報を受け付ける体制を整備する 閲覧防止措置や通報受付の状況を毎年公表する ここまでは、対象や運用が明確であれば、プラットフォームの透明性を高める制度として理解できなくはない。 問題は、その先にある。 改正案は、正式な「青少年有害情報」だけでなく、 青少年有害情報に準ずる程度に青少年の健全な成長を著しく阻害するおそれが大きいと認められる情報 についても、同様の措置を講じる努力義務を課そうとしている。 この一文が、改正案の最も危うい部分である。 「青少年有害情報に準ずる情報」とは何なのか 現行法の「青少年有害情報」は、もともと非常に広い概念である。 法律上は、青少年の健全な成長を著しく阻害する情報を指し、犯罪や自殺を誘発する情報、性的刺激を与える情報、残虐な情報などが例示されている。 それにもかかわらず、今回の改正案は、その「青少年有害情報に準ずる程度」の情報という、もう一段曖昧な領域を設けようとしている。 しかし、「準ずる程度」とは何を意味するのだろうか。 正式な青少年有害情報には該当しないが、それと同じくらい有害な情報なのか。もし同じ程度に「健全な成長を著しく阻害する」のであれば、なぜ最初から青少年有害情報に該当しないのか。その境界は、条文を読んでも分からない。 法律によって表現に不利益を与えるのであれば、何が対象になるのかを、表現者や事業者が事前に予測できなければならない。 ところが、この規定では、最終的な線引きをプラットフォーム側に委ねることになる。 「努力義務だから問題ない」とは言えない この規定は努力義務であり、直ちに広告を禁止したり、削除しなければ処罰したりするものではない。 だからといって、影響が小さいとは限らない。 プラットフォームは、実施要領を公表し、通報を受け付け、対応状況を毎年公表することになる。さらに、その対応を「第三者として評価する民間団体」を、国や地方公共団体が支援する仕組みまで設けられている。 このような制度の下では、事業者は次のように考えるだろう。 「対象かどうか分からない広告は、掲載しないほうが安全だ」「批判や通報を受けるくらいなら、先に削除しておこう」 これは表現の萎縮効果である。 国が直接削除を命令しなくても、曖昧な基準、通報制度、対応状況の公表、外部団体による評価を組み合わせることで、民間事業者に広めの規制を選ばせることができる。 形式上は自主規制でも、その自主規制を法律が強く誘導するのであれば、表現の自由との関係を慎重に検討しなければならない。 通報の多さは「有害性」の証明ではない 国民からの通報を受け付ける仕組みにも注意が必要だ。 通報件数が多いからといって、その表現が本当に青少年へ深刻な害を与えるとは限らない。単に目立つ広告だった、嫌いな表現だった、SNSで批判が拡散した、特定の団体が集中的に通報したという場合もある。 性表現に限らず、ジェンダー、家族観、政治的主張、少数者の表現など、社会的に意見が分かれるテーマは組織的な通報の対象になりやすい。 ところが、改正案では、少なくとも次の点が明確になっていない。 有害性を誰が、どのような基準で判断するのか 広告主や表現者に説明や反論の機会があるのか 掲載拒否や削除に対する異議申立てができるのか 通報件数と、実際に問題が認められた件数を区別して公表するのか 第三者評価を行う団体の中立性をどう確保するのか 通報制度を設けるなら、通報する側だけでなく、規制される側の手続的保障も必要である。 「第三者」の中立性は誰が保証するのか 改正案は、プラットフォームの閲覧防止措置を第三者として評価する民間団体を、国や地方公共団体の支援対象に加えている。 しかし、「第三者」と書くだけで中立性が生まれるわけではない。 特定の価値観に基づいて表現規制を強く求めてきた団体が評価主体となり、その団体を行政が支援する可能性もある。評価基準や利益相反、構成員、資金関係が不透明であれば、行政のお墨付きを得た民間団体が、事実上の表現規制基準を作ることになりかねない。 評価団体の選定基準、資金の透明性、利益相反の排除、異なる立場の専門家の参加などを、制度として担保する必要がある。 何を見せ、何を見せないかは、まず家庭教育の問題である そもそも、子どもに何を見せ、何を見せないかは、第一義的には家庭教育の領域である。 子どもの年齢、発達段階、理解力、家庭の価値観はそれぞれ異なる。同じ表現でも、小学生と高校生では受け止め方が違い、保護者の考え方も一様ではない。 国家が「健全な成長」という抽象的な基準によって、すべての家庭に共通する正解を決めるべきではない。 もちろん、児童ポルノや犯罪を直接誘発する情報など、明確に違法なものへの対処は必要である。しかし、「不快に感じる」「子どもには早い」「教育上好ましくない」といった評価まで、直ちに法規制の根拠にしてはならない。 「自分の子どもには見せたくない」という判断と、「社会からその表現を排除すべきだ」という結論の間には、大きな隔たりがある。 その隔たりを飛び越えて、法規制へ進むべきではない。 必要なのは、見せない規制だけではなく、情報を読み解く力を育てること 子どもを守るために必要なのは、あらゆる好ましくない情報から子どもを遠ざけることだけではない。 情報を読み解き、広告の意図を理解し、危険を判断し、適切に距離を取る力を育てることが重要である。 インターネット上から好ましくない情報を完全になくすことはできない。広告を一つ規制しても、SNS、動画、ゲーム、検索結果など、子どもが情報に触れる経路はいくらでもある。 だからこそ、家庭教育とリテラシー教育が必要になる。 国や自治体が取り組むべきなのは、特定の価値観に基づいて「見せてよい表現」と「見せてはいけない表現」を一律に決めることではない。 保護者が利用できるフィルタリング機能を充実させる 年齢に応じて広告表示を選択できる仕組みを整える 未成年のアカウントには一定の広告を表示しない 子どもが不快な広告を自分で閉じたり報告したりできるようにする 学校で広告や情報の意図を読み解く力を教える 保護者に端末設定やペアレンタルコントロールの情報を提供する こうした環境整備こそが行政の役割である。 子どもの保護を理由に社会全体から表現を排除するのではなく、それぞれの家庭が子どもの発達段階に応じて選択できるよう支援する。それが、家庭の教育に関する判断と表現の自由をともに尊重する方法ではないだろうか。 子ども向け対策と、大人を含む一律規制は違う 青少年保護を目的とするなら、本来優先されるべきなのは、子どもが利用する場面に限定した対策である。 大人も利用するプラットフォームから表現自体を広く排除することと、青少年に表示しない仕組みを整えることは同じではない。 表現の内容そのものを規制する前に、誰に、どの場面で、どのように表示されるのかを制御する方法を検討すべきである。 これは表現規制の基本でもある。 目的を達成できる複数の手段があるなら、表現の自由をより強く制限する手段ではなく、影響の少ない手段を選ばなければならない。 規制を必要とする根拠が十分に示されていない 改正案の概要には、「青少年が意図しない形で目に触れてしまう」という問題意識は示されている。 しかし、そこから直ちに、対象の曖昧な法的枠組みを導入してよいことにはならない。 必要なのは、少なくとも次の検証である。 どのような広告が、どの年代に、どの程度表示されているのか 具体的にどのような被害が確認されているのか その広告と青少年への重大な悪影響との関係が確認されているのか 既存の広告審査やフィルタリングでは、なぜ対応できないのか 表示方法の改善など、より制限的でない手段では足りないのか 新制度によって過剰な掲載拒否や削除がどの程度発生するのか 示された資料からは、こうした立法事実や代替手段の比較が十分に示されているとは言い難い。 「不快に感じる人がいる」ことと、「青少年の健全な成長を著しく阻害する」ことは同じではない。 強い言葉によって規制を正当化するのであれば、それに見合う具体的な根拠が必要である。 将来の規制拡大にも注意が必要だ 改正案の附則は、広告をはじめとする「青少年の健全な成長を阻害するおそれのある情報」について、閲覧機会をできるだけ少なくする技術や、その他の方策を政府が検討するとしている。 ここでも、対象は「エロ広告」に限定されていない。 今回の制度が入口となり、将来的には広告以外の投稿、漫画、動画、ゲーム、政治的・社会的表現などへ対象が広がる可能性も否定できない。 規制は、一度導入されると対象が拡張されやすい。だからこそ、最初の段階で対象、基準、手続、効果検証、見直し期限を明確にしなければならない。 問題は目的ではなく、手段である この改正案を批判することは、子どもに性的な広告を無制限に見せるべきだと主張することではない。 問題は目的ではなく、手段である。 青少年を守るという目的が正当であっても、曖昧な基準で幅広い表現を萎縮させてよい理由にはならない。 「エロ広告対策」という言葉だけで思考を止めず、実際の条文がどこまでの表現を対象とし、誰に判断させ、どのような不利益を生じさせるのかを見る必要がある。 少なくとも、この改正案については次の点を問い直すべきだ。 「エロ広告」とは何かを明確に定義できるのか なぜ条文では性的な広告以外にも対象を広げているのか 「青少年有害情報に準ずる情報」という曖昧な規定は必要なのか 年齢や利用場面に応じた表示制限では対応できないのか 掲載拒否や削除に対する理由通知と異議申立制度はあるのか 通報件数と実際に問題が認められた件数を区別するのか 第三者評価団体の中立性と資金の透明性をどう確保するのか 規制の必要性と効果を定期的に検証するのか 表現の自由への影響を誰が検証するのか 子どもを守ることと、表現の自由を守ることは対立する目標ではない。 何を見せ、何を見せないかは、まずそれぞれの家庭が子どもの発達段階に応じて判断する。その判断を、フィルタリングやペアレンタルコントロールによって支援する。同時に、学校や家庭で情報を読み解く力を育てる。 それでも対応できない、具体的で重大な危険がある場合に限って、対象を明確に限定した措置を検討する。 それが本来の順序である。 「健全な成長」という抽象的な言葉によって、何が許される表現なのかを行政、巨大プラットフォーム、行政の支援を受けた民間団体の判断に委ねる制度には、慎重であるべきだ。 「子どもに見せたくない」という思いを、そのまま「社会から消すべきだ」という規制に転換してはならない。 関連リンク【法案提出】議員立法「エロ広告規制法案」を提出|国民民主党表現の自由に関連する記事

「SNS禁止」で解決するのか 青少年利用規制をめぐる勉強会に参加して

NPO法人うぐいすリボン、コンテンツ文化研究会の共同開催により、衆議院第一議員会館会議室で行われた勉強会「SNSの青少年利用規制について考える」に参加した。 会場には複数の国会議員の姿も見られ、SNS規制をめぐる議論への関心の高さがうかがえた。 「禁止」か「自由」かでは整理できない問題 近年、世界各国で「16歳未満のSNS利用制限」や「年齢認証強化」が議論されている。日本でも青少年保護の観点から議論が進んでおり、ニュースなどでも取り上げられる機会が増えている。 しかし、今回の勉強会で印象的だったのは、単純な「SNSは禁止すべきか否か」という話ではなかった点である。 むしろ中心にあったのは、「子どもが安全にデジタル社会へ参加できる環境をどう設計するのか」という視点だった。 SNSを全面的に否定するのでもなく、逆に無制限な自由を肯定するわけでもない。その中間にある「安全な参加」をどう実現するのかという議論が行われていた。 問題になっているのは「SNSそのもの」ではない 前半では、社会情報学者で仙台大学教授の齋藤長行氏が講演を行った。 講演の中で繰り返し語られていたのが、「SNSそのものが問題なのではなく、現在のSNS設計が問題なのではないか」という点である。 現在、多くのSNSは広告収益を前提としており、利用者をできるだけ長時間滞在させる構造になっている。 おすすめ機能、推薦アルゴリズム、無限スクロール、プッシュ通知などは、その代表例である。 特に印象的だったのは、「現在のSNSは、熱中させること自体が目的化している」という指摘だった。 確かに、少しだけ見るつもりだったのに、気づけば何十分も経っていたという経験は、多くの人にあると思う。 大人ですらそうなのだから、判断力が未成熟な子どもが影響を受けやすいのは当然とも言える。 以前のFacebookは、友人の投稿が時系列で流れる比較的シンプルなサービスだった。しかし現在は、おすすめ投稿やアルゴリズムによる誘導が中心になり、友人の投稿を探す方が大変なほど構造が変化している。 つまり、問題になっているのは「危険なコンテンツ」だけではなく、「危険な方向へ利用者を誘導しやすい設計」そのものなのである。 「つながり」を奪うことにもなりかねない 一方で、単純な全面禁止には慎重な意見も多く出ていた。 SNSは確かにリスクを抱えている。しかし同時に、社会参加の手段にもなっている。 例えば、 ・病気などで外出が難しい人・地方や離島で同世代との接点が少ない人・学校や地域で孤立している若者・LGBTQ当事者 などにとって、オンライン空間は重要な居場所になっている場合がある。 「対面で話せばいい」という前提が成立しないケースも少なくない。 そのため、「危険だから全部禁止」という発想では、逆に社会参加の機会を失わせる可能性もあるという指摘は非常に重要だった。 SNS規制を考える際には、「保護」だけでなく、「参加する権利」も同時に考えなければならないという話は印象に残った。 幸福度を下げるSNS、上げるSNS 講演では、SNSと幸福度に関する海外研究の紹介もあった。 World Happiness Report 2026では、SNSを一括りにはできないという分析が紹介されていた。 WhatsAppやFacebookのような、人とのつながりを中心としたSNSでは、幸福度や生活満足度が比較的高い傾向が見られる一方、XやInstagram、TikTokのようなアルゴリズム誘導型SNSでは、メンタルヘルスへの悪影響が確認されているという。 つまり、「SNSだから悪い」のではなく、「どういう使われ方をする設計なのか」が重要なのである。 この点は非常に納得感があった。 実際、知人との連絡や情報共有で助けられる場面もあれば、延々とおすすめ動画を見続けてしまい、疲弊するような使い方もある。 SNSは単なる道具ではなく、「どう設計されているか」で影響が大きく変わるという話は、今後さらに重要になっていくと感じた。 日本の制度は「見る側」中心になっている 後半では、日本とニューヨーク州双方で活動する弁護士の上沼紫野氏が講演した。 ここで特に印象的だったのは、「現在の日本制度は“閲覧規制”中心になっている」という指摘だった。 従来のフィルタリングは、「危険なサイトを見せない」ことを前提としている。 しかし現在問題になっているのは、「見ること」だけではない。 むしろ、 ・性的画像を送ってしまう・誹謗中傷を書き込んでしまう・危険な個人情報を投稿してしまう など、「発信側」のリスクが非常に大きくなっているという。 弁護士会の相談でも、「被害に遭った」という相談より、「自分がやってしまった」という相談が増えているという話は印象的だった。 しかも、多くの子どもは悪意があってやっているわけではない。 「犯罪になると思わなかった」「軽い気持ちだった」 というケースが多いという。 そのため、今必要なのは、「閲覧制限」だけではなく、「発信をコントロールする仕組み」ではないかという指摘には説得力があった。 「全面禁止」だけでは解決しない また、「16歳まで全面禁止」に対する懸念も興味深かった。 現実社会では、子どもはいきなり世界中へ向けて発信するわけではない。 しかしSNSでは、小学生でも突然グローバル空間へ接続される。 だからこそ、 ・投稿前Warning・危険画像検知・DM制限・段階的な利用環境 などを通じて、「小さく失敗しながら学ぶ環境」が必要だという考え方は非常に現実的だと感じた。 完全に遮断してしまうと、逆に経験不足のまま一気にSNS空間へ放り出されることになる。 「16歳になった瞬間にSNSデビューする方が危険ではないか」という指摘は、確かにその通りだと思った。 「自己責任」だけでは限界がある 勉強会全体を通じて感じたのは、「保護者や利用者だけの自己責任では限界がある」という点である。 現在の制度は、フィルタリング設定や利用制限を保護者側へかなり委ねている。 しかし、複雑な設定やリスク構造を十分理解できる保護者ばかりではない。 そのため、 ・OS事業者・SNS事業者・アプリストア・通信事業者 など、各主体が責任を分担する方向性は避けられないのだろうと感じた。 実際、TikTokでは ・16歳未満DM禁止・危険投稿への警告表示・利用時間管理機能 など、安全対策が行われている。 もちろん、それだけで十分とは言えない。しかし少なくとも、「利用者の自己責任だけで済ませる時代ではない」という認識は、かなり共有されつつあるように感じた。 「排除」ではなく「安全な参加」をどう実現するか 今回の勉強会を通じて改めて感じたのは、SNS規制は単純な賛成・反対では整理できないテーマだということである。 子どもの保護、表現の自由、匿名性、社会参加、依存対策、アルゴリズム設計、事業者責任。 これらをどう両立させるのかが問われている。 その中で、今回最も印象に残ったのは、 「子どもをデジタル社会から排除するのではなく、安全に参加できる環境をどう作るか」 という視点だった。 今後、日本でも制度議論はさらに進んでいくと思う。 その際、「危険だから全部禁止」という単純な方向へ流れるのではなく、設計や構造の問題まで踏み込んだ冷静な議論が必要だと強く感じた。 関連リンク齋藤長行氏上沼紫野氏SNSに関する投稿記事

武蔵野市・吉祥寺駅北口駐輪場売却をめぐる住民訴訟と情報発信の問題点

現在、武蔵野市では、市有地の売却をめぐって住民訴訟が提起されている。訴訟の対象となっているのは、吉祥寺駅北口に位置する旧駐輪場用地の売却であり、原告側は、この売却が不当に低い価格で行われ、市に損害を与えたと主張している。一方、市側は、鑑定評価や手続に基づく適法な行政判断であり、不当な損害は生じていないとして争っている。この訴訟は、地方自治法に基づく住民訴訟であり、原告は「市民の一人として、市の財産管理が適正であったかを司法に問う」という立場にある。住民訴訟は、行政の判断に疑義がある場合に、市民が市を代表して首長や職員の責任を追及できる制度であり、日本の地方自治における重要な監視装置として位置づけられている。現時点では、裁判所において事実関係と法的評価が審理されており、どちらの主張が正しいかについての最終的な結論は、司法の判断に委ねられている段階にある。このような係争中の状態においては、行政の適法性・違法性はいずれも確定しておらず、あくまで「争われている問題」である。この前提を踏まえたうえで、住民訴訟という制度の意味と、それが公共空間でどのように扱われるべきかを整理する必要がある。 住民訴訟は民主主義の装置である 地方自治法が用意した住民訴訟は、行政を監視するための中核的な制度だ。議会や選挙だけでは見えにくい行政の判断を、司法の場で検証するための仕組みであり、市民に与えられた重要な権利である。住民が行政の違法や不当を疑い、訴訟を通じて白黒をつけようとする行為は、民主主義にとって健全であり、尊重されるべきものだ。 問題は、訴訟そのものではない。問題は、係争中の訴訟を、司法の判断が出る前から、政治宣伝や印象操作の道具として使う行為にある。疑いは疑いとして提示されるべきであって、結論が出ていない段階で「違法だ」「不正だ」と断定することは、制度の趣旨を根本から歪める。住民訴訟は真実を確かめるための装置であり、誰かを有罪にするための道具ではない。 係争中に断定的な言説を広めることの意味 係争中とは、事実関係と法的評価が裁判所で争われている状態を指す。この段階では、どちらの主張が正しいかは未確定であり、法的には白でも黒でもない。にもかかわらず、「違法な売却」「市民の財産が奪われた」「巨額の損害が出た」といった表現が公共空間で繰り返されると、社会にはあたかも結論が出たかのような印象が刷り込まれる。 日本の名誉毀損法理は、この点に極めて敏感だ。公人であっても、係争中の事件について、未確定の犯罪や違法行為を事実のように広めることは許されない。なぜなら、判決で否定されても、一度広まった評価は簡単には消えないからだ。司法が真実を確定する前に、言論が勝手に結論を作り上げることは、法治主義そのものを壊す行為になる。 仮に原告が敗訴した場合に起きること ここからは仮定の話だ。もし住民訴訟の原告が最終的に敗訴し、行政の判断に違法性がないことが確定したとする。このとき、それまで流布していた「違法」「不正」「損害」といった断定的な言説は、事後的に虚偽であったことが明らかになる。 この瞬間から、問題の性質は大きく変わる。係争中は「意見」や「主張」として許容されていた表現が、敗訴確定後には「虚偽の事実の摘示」になる。民事では名誉毀損や信用毀損の責任が問われ、刑事では名誉毀損罪や業務妨害罪の構成要件を満たしうる。とりわけ最高裁まで進んで敗訴が確定した場合、「違法だと信じていた」という抗弁はほとんど通用しなくなるのではないだろうか。 司法が示す「表現の境界線」 過去の判例を紐解けば、目的が「行政監視」という正当なものであっても、手法が「断定的」であれば救われないことがわかる。司法は、疑惑を疑惑として報じる自由は認めるが、十分な証拠なく「不正」と断定し、個人の名誉や団体の信用を毀損する行為には極めて厳しい。 特に住民訴訟を「免罪符」にして、司法判断が出る前に社会的な処刑(ソーシャル・リンチ)を行うような言説は、真実相当性を欠くものとして、後に巨額の賠償義務を負うリスクを孕んでいる。これは「言論の自由」の行使ではなく、単なる「法的リスクを無視した暴走」に他ならない。 請求額と損害額を混同させる危険 住民訴訟では、原告が請求額を設定する。しかし請求額はあくまで原告の主張であり、実際に損害が存在するかどうか、どの程度かは裁判所が判断する。係争中に請求額をそのまま「市民に生じた損害」と表現すれば、事実のすり替えが起きる。金額の大きさは感情に訴えやすく、世論を動かす強力な道具になるが、敗訴すればその表現は虚偽になる。請求額を見出しに掲げて煽る手法は、読者に誤った事実認識を与える危険なやり方だ。 寄付募集と虚偽の前提 さらに深刻なのは、係争中の断定的言説を前提に寄付を募る行為だ。「違法な売却で市民に被害が出ている」「それを取り戻すために資金が必要だ」という説明で金銭が集められ、後にその前提が否定された場合、法的な評価は厳しくなる。寄付は自由意思に基づくが、その自由意思が虚偽の説明で歪められていたなら、民事では不当利得、刑事では詐欺の問題が生じうる。目的の正当性は、前提の真実性があってこそ成り立つ。 ▲ 住民訴訟が、寄付を集め、組織を作り、街頭で動員されていたことは、これらの資料が示している。 訂正と名誉回復の義務 敗訴が確定した後に残るのは、名誉回復の問題だ。虚偽の断定が広く流布された場合、単なる削除では足りない。同程度の範囲と強度で訂正と謝罪を行い、社会に残った誤解を是正する必要がある。これは懲罰ではなく原状回復だ。嘘で壊した評価を、嘘を広めた側が責任を持って戻すという原則にすぎない。 沈黙と放置がもたらす法的評価 敗訴後に訂正も謝罪もしないまま沈黙する態度は、虚偽を認識しながら放置したと評価される余地を生む。これは故意や重過失の立証を容易にする。法は、誤りを認めて是正する者に対しては寛容だが、誤りを知りつつ無視する者には厳しい。是正の機会が与えられた後の態度が、最終的な責任の重さを決める。 制度を守るということ 住民訴訟は守られるべき制度だ。だからこそ、その制度を政治宣伝の武器に変える行為は許されない。係争中は司法の判断を待つ。敗訴が確定したら速やかに訂正する。この当たり前のルールを守ることが、表現の自由と法治主義を両立させる唯一の道だろう。 まとめ 本稿で述べてきたことは、あくまで一般論であり、仮定の整理にすぎない。現在係争中の住民訴訟について、最終的な結論は司法の判断を待つほかない。原告が勝訴する可能性もあれば、敗訴する可能性もある。そこに政治的な願望や感情を差し込むべきではない。 ただし、係争中の訴訟をどのように社会に伝えるかという点については、結果とは別に検証されるべき問題がある。疑義を司法に委ねること自体は正当な市民の権利である一方で、その過程で、まだ確定していない違法性や損害を断定的に語り、街頭やネットで世論を動員し、資金集めまで行う手法には、強い違和感を覚える。 住民訴訟は、本来、行政と市民の間の紛争を法の枠内に収めるための制度だ。怒りや疑念を、裁判というルール化された場に送り込み、事実と評価を冷静に確定させるための装置である。それを、政治的な宣伝や動員の道具として使うなら、その瞬間に制度の趣旨から逸脱する。 仮に原告が敗訴した場合、係争中に流布された断定的な言説や寄付募集の前提は、事後的に虚偽であったことになる。そのとき問われるのは、勝ち負けではなく、制度をどう扱ったかという姿勢だ。誤りがあれば訂正し、名誉を回復し、社会に残った誤解を正す。それが法治国家における最低限の責任である。 住民訴訟は、市民の権利を守るための制度であって、誰かを政治的に攻撃するための武器ではない。その線を越えたとき、問題になるのは行政ではなく、制度を利用する側の振る舞いそのものだ。 関連リンク「吉祥寺駅北口の駐輪場」売却問題 土屋元市長の請求を棄却し、松下前市長の正当性を認める地裁判決 - 弁護士JPニュース武蔵野市民の財産を守る会 @musashinozaisan藪原太郎公式サイト

著作権侵害の非親告罪化と生成AI時代の課題について考える

著作権侵害の非親告罪化の問題 著作権侵害を非親告罪化する議論は、これまで何度も浮上しては消えてきた。表現の自由、二次創作文化、情報流通、メディアのあり方に直結する重大なテーマであり、制度の導入は単なる法技術的な変更ではなく、創作活動の前提そのものを揺るがす問題である。 近年では、生成AIをめぐる著作権議論の高まりに伴い、作品の無断学習を問題視する立場から、再び非親告罪化を求める声が一部にあるとの指摘もある。しかし、その議論の進め方には注意が必要だ。 非親告罪化とは何か 著作権侵害は現行制度では親告罪として扱われる。権利者が被害を訴えない限り、国家は刑事罰を科すことはできない。これは、創作の自由や二次創作文化との調和を重視し、権利者の意思を尊重する枠組みとして維持されてきた。 非親告罪化とは、権利者の告訴がなくても、警察や検察が独自に著作権侵害と判断すれば、強制捜査や逮捕が可能になる制度を指す。国家が表現行為に直接介入しやすくなる点が最大の懸念である。 非親告罪化が問題視される理由 非親告罪化は、権利者の判断を超えて国家が表現行為を取り締まることを可能にする。著作権法は文化の発展を目的とし、引用、批評、パロディ、オマージュなどとの調和の上に成り立つ。これらの領域は判断が複雑であり、刑事捜査の対象にすべきではない。 警察や第三者通報により、権利者が問題視していない表現まで捜査対象になる危険もある。これにより創作者は常に萎縮し、自由な表現活動が損なわれる可能性が高い。 二次創作文化への影響 日本のマンガ、アニメ、ゲーム文化は、権利者による黙認や理解によって発展してきた。同人誌文化やコミケットはその象徴であり、この柔軟な運用が創作の裾野を広げてきた。 しかし非親告罪化が導入されると、権利者が黙認しているケースであっても、第三者の判断で捜査が開始される可能性が生まれる。イベント運営者やサークルは常時リスクを抱えることとなり、二次創作文化は大きく萎縮する危険がある。 自主規制のエスカレート 非親告罪化は民間プラットフォームによる過剰な自主規制を引き起こす。動画サイトやSNSは行政や捜査の動きを忖度し、権利者が問題視していないコンテンツにまで削除やアカウント停止を行う可能性が高い。 アルゴリズムやAIの誤検知の問題も加わり、適法な引用や批評が抑え込まれる恐れがある。こうした環境では、創作者は常に不安を抱え、自由な表現活動が難しくなる。 刑事訴追の範囲が曖昧であること 著作権侵害の判断には高度な専門性が必要で、引用の適法性やパロディの境界、批評の許容範囲などは一律に決められない。権利者自身も慎重に判断する領域を、警察が第三者通報を契機に踏み込むことは、恣意的な運用を招く。 強制捜査が先行し、後に不起訴となるケースがあっても、その過程で創作者が受ける損害は大きい。刑事手続きの重さは、表現行為の萎縮に直結する。 政治的利用への懸念 政治家の写真や行政資料を用いた批判ポスター、風刺イラスト、ミームなどが、権利者の意思と無関係に摘発対象となる可能性がある。権力が著作権を名目に表現内容へ介入する余地が生まれ、民主主義の根本原理が揺らぎかねない。 表現内容の評価に左右される制度は、特に政治分野で危険性が高い。 生成AIと無断学習の問題 一方で、生成AIの急速な発展により、既存の著作物が権利者の許可なくデータセットとして収集される問題は深刻化している。イラスト、写真、小説、同人誌、声などが、公開しているだけで学習素材として取り込まれることがあり、権利者は利用状況を把握する手段すら乏しい。 創作者の経済的利益や人格的利益に関わる問題であり、この状況を放置してよいわけではない。しかし、現行法はAIによるデータ収集や学習を十分に想定しておらず、線引きが曖昧なまま運用されている。生成AIの発展に法整備が追いついていないという指摘は正当である。 非親告罪化で解決する問題ではない 生成AIの無断学習が問題であるからといって、非親告罪化に踏み込むのは制度的な飛躍である。生成AIへの対処は、 データ収集の範囲学習プロセスの透明性権利者のオプトアウト制度プラットフォームの責任分担学習済みモデルの取り扱い といった、AI固有の法整備が必要であり、表現全般に刑事罰を拡大する非親告罪化とは本質的に異なる領域である。 結論 生成AIの無断学習の問題において、現行法が追いついていないことは間違いない。その不足を補うために、新たな法整備や透明性の確保が求められる。しかし、非親告罪化はその問題を解決するどころか、二次創作文化や批評、引用、風刺といった社会に不可欠な表現行為を萎縮させる危険性が大きい。 著作権侵害の非親告罪化は、表現文化全体を巻き込みかねない問題であり、慎重な議論が不可欠である。創作者と権利者の利益を守りつつ、文化の発展を支えるためには、現行制度の枠組みを維持しながら、生成AI時代に適合した新しい法整備を行うことが適切だと考える。 注記 この分野については、私自身まだ勉強しながら理解を深めている段階です。考えを整理する意味も含めて今回の文章を書きました。もし気づいたことや別の視点があれば、どうぞ気軽にご意見をお寄せください。 関連リンク生成AIはじめの一歩~生成AIの入門的な使い方と注意点~ / 総務省サイト内記事 / 表現の自由

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