
国旗損壊処罰法が創作文化を萎縮させる
国旗を破ったり、汚したりする行為を見て、不快に感じる人はいるだろう。私も、何をしても構わないと言いたいわけではない。
だが、そこで国家が出てきて、「不快に感じる人がいるから刑罰を科す」となった瞬間、話は別になる。
「国旗の損壊等の処罰に関する法律」は、単に旗を壊した者を罰する法律ではない。何を国旗と呼ぶのか。何を不快と呼ぶのか。どこまでを表現として許すのか。その判断を、捜査機関や検察、裁判所に委ねる法律である。
そして、その境界線は驚くほど曖昧である。
私自身、祝日に国旗を掲げることをやめた。もちろん、掲揚した国旗が少し汚れていたからといって、それだけで直ちに国旗損壊罪に当たるわけではない。そのことは理解している。
それでも、うっかり汚れたまま掲揚してしまった場合、それを見た誰かが問題視し、通報する可能性は否定できない。実際に処罰されるかどうかとは別の話である。警察から事情を聞かれたり、近隣とのトラブルになったりするリスクは残る。
そのリスクを考え、私は掲揚そのものをやめたのである。法律が直接禁止しているからではない。曖昧な法律が存在することで、余計なトラブルを避けるために、自分から行動を狭めることになったのである。
これこそが、法律による萎縮効果の実例である。
その旗、本当に「国旗」なのか
第一条は、国旗を次のように定義している。
「国旗」とは、国旗及び国歌に関する法律に定める国旗として用いられていると社会通念上認められる有体物をいう。
まず引っかかるのが、「社会通念上認められる有体物」という表現である。
市販されている正式な日の丸だけが対象になるわけではない。寸法や色彩が国旗国歌法の制式に完全に一致していなくても、一般の人から見て日の丸、あるいは日本国旗として使われていると認められれば、対象になり得る。
自作の旗。スポーツ応援用の小旗。抗議活動で使われる布。舞台上の小道具。こうしたものまで、状況次第で「国旗」と判断される余地がある。
法務省は、アニメや漫画、ゲーム、生成AI画像の中に描かれた日の丸は、デジタル上の表現であり「有体物」ではないため、現在の法律の対象外だと説明している。
しかし、ここで安心してよいのか。
画像を印刷すれば、物理的な媒体になる。旗にすれば、現実の物体になる。舞台で使えば、小道具になる。立体作品にすれば、触れることのできる作品になる。
創作の現場では、デジタルと現実の境界はそれほど明確ではない。にもかかわらず、法律は「社会通念」という言葉で、その境界を丸ごと社会の空気に預けている。
社会通念は固定されたものではない。政治状況によっても、世論によっても変わる。今日まで「単なるデザイン」とされていたものが、明日には「国旗として用いられている」と評価される可能性もある。
法律に必要なのは、空気ではない。誰が読んでも分かる基準である。
「不快」が犯罪を決める
第二条はこう定めている。
人に著しく不快又は嫌悪の情を催させるような方法により、公然と国旗を損壊し、除去し、又は汚損した者は、二年以下の拘禁刑又は二十万円以下の罰金に処する。
この条文で最も危ういのは、「著しく不快又は嫌悪の情を催させるような方法」という部分である。
何が「著しく不快」なのか。どの程度で「嫌悪」なのか。誰の感情を基準にするのか。法律は何も具体化していない。
法務省は「一般通常人から見て、ひどく快くないと感じさせる方法」と説明している。しかし、それは言葉を言い換えただけであり、処罰の境界を示した説明とは言い難い。
「著しく」という言葉が入っているから大丈夫だという見方もあるだろう。だが、著しいかどうかを判断するのも人間である。警察官であり、検察官であり、最終的には裁判官である。
第二条第二項は、行為の外形、周囲の状況、その他の客観的な事情を総合的に勘案すると定める。
一見すると、客観的な判断を求めているように見える。だが、「その他の客観的な事情」とは何か。「総合的に勘案」とは、どの要素をどの程度重視するのか。
結局、判断者の裁量に委ねられている。
同じ行為でも、駅前で行えば処罰対象となり、自宅の庭で行えば対象外となる可能性がある。観客の人数、場所、時間、周囲の雰囲気によって、結論が変わる。
これは、国民にとって事前に処罰ラインを予測できない法律である。
表現の内容を見ないという矛盾
法務省のQ&Aは、「著しく不快又は嫌悪の情を催させる方法」に該当するかどうかを判断する際、行為者が伝えようとした表現やメッセージの内容は考慮しないと説明している。
しかし、それは本当に可能なのか。
国旗を破る。燃やす。踏む。黒く塗る。バツ印を付ける。
こうした行為は、単なる物理的動作ではない。政治的な意味や、社会への抗議の意味を持つことが多い。行為の外形と、表現の内容は簡単に切り離せない。
「内容は見ない」と言いながら、表現の意味を帯びた行為の外形だけを処罰する。それは、表現の自由に対する規制を、別の言葉で言い換えているだけではないのか。
しかも、この法律には「日本国に対して侮辱を加える目的」という要件がない。
外国国章損壊罪の場合、刑法92条は外国に対する侮辱目的を必要としている。さらに、外国政府の請求がなければ公訴を提起できないという制限もある。
一方、この法律には、そのような目的要件も、特別な請求要件もない。
自己所有の国旗であっても、政治的抗議や芸術的表現として行ったものであっても、条文上は当然に除外されないのである。
第三条は単なる注意書きである
第三条には、表現の自由に配慮する文言がある。
表現の自由その他の日本国憲法の保障する国民の自由と権利を不当に侵害しないように留意しなければならない。
これを根拠に、「表現の自由は守られている」と説明する人もいる。
しかし、この条文は「表現として行った行為は処罰しない」と定めていない。「不当に侵害しない」と書かれているだけである。
では、何が不当なのか。どこまでなら許されるのか。判断基準は書かれていない。
第三条に違反したからといって、逮捕できなくなるわけでもない。起訴できなくなるわけでもない。処罰対象から自動的に外れるわけでもない。
法務省は、政治的・芸術的表現であれば、刑法35条の「正当行為」として違法性が否定される場合があると説明している。
だが、「場合がある」にすぎない。表現であることが、最初から明確な免責になるわけではない。
捜査され、取り調べられ、起訴され、裁判で争って、初めて正当な表現だったと判断される可能性がある。そのような制度の下で、誰が安心して表現できるのか。
「国民感情」を刑罰で守るということ
この法律が保護しようとしているものは、国旗という物体そのものではない。所有権でも、具体的な身体被害でもない。
附則第二項は、法律の見直しにあたり、
国旗を大切に思う国民感情を保護するのに必要かつ十分なものとなっているか
という観点から検討すると定めている。
ここに、この法律の本質が表れている。
国家が刑罰によって守ろうとしているのは、「国旗を大切に思うべきだ」という感情である。
しかし、人々が何を尊び、何に怒り、何を嫌悪するかは、本来、個人の内心に属する。国旗を尊重する人もいれば、国旗を国家や政府の象徴として批判的に扱う人もいる。
その違いを認めることこそ、思想・良心の自由であり、表現の自由である。
多数派が不快に感じる表現を、少数派が行えば処罰する。そんな社会へ進む危険がある。
刑罰は、誰かの感情を満足させるために存在するものではない。
附則に書かれた一文の恐怖
附則第二項は、施行から三年を目途に法律を見直すとしている。
検討対象として、わざわざ次の行為を挙げている。
- 国旗を損壊する状況に係るインターネット上の映像
- 損壊・汚損された国旗を公然と陳列する行為
- これに類する行為
現在の法律では、私室で国旗を損壊し、その動画を後から配信する行為は、この罪の対象外と整理されている。一方、ライブ配信中の損壊は、「公然と」に該当し得るとされている。
すでに損壊された国旗を展示する行為も、展示だけで直ちに処罰する規定ではない。
では、なぜ附則に書いたのか。
将来的に、ネット上の動画投稿、画像の拡散、損壊された国旗の展示、さらに「これに類する行為」まで規制対象に加える議論へ進むためである。
もちろん、この附則だけで直ちに処罰範囲が広がるわけではない。新たな犯罪を作るには法改正が必要である。
それでも、法律自身が将来の拡張候補を列挙している事実は重い。
これは単なる見直し条項ではない。表現規制を拡張するための足場になり得る条項である。
創作文化は「逮捕されない」だけでは守れない
アニメ、漫画、ゲーム、映画、舞台、現代美術。これらの表現では、国旗が歴史や政治、戦争、国家、権力を象徴する記号として登場する。
国旗を掲げる人物を描くこともある。国旗を破る場面もある。国旗にバツ印を付ける場面もある。架空の国家の旗をデザインし、現実の国旗と似た意匠を使うこともある。
表現の自由とは、誰も不快に感じない作品を作る自由ではない。誰かが不快に感じる表現を含めて、作品として発表する自由である。
法律が存在するだけで、出版社やゲーム会社、配信プラットフォームはリスクを避ける。作家やクリエイターも、「この描写は通報されないか」と考える。
最初に起きるのは大量逮捕ではない。
編集会議での却下である。企画段階での修正である。広告表現からの削除である。作者自身による自主規制である。
表現文化は、禁止された瞬間に死ぬのではない。危険かもしれないと感じた瞬間から、少しずつ痩せ細っていく。
守るべきは国家への服従ではない
私は、国旗を損壊する行為を推奨しているのではない。
問題は、国旗に対する不快感や嫌悪感を、国家が刑罰で守り始めることにある。
国旗を尊重する人の自由は守られるべきだ。同時に、国旗を批判的に扱う人の自由も守られなければならない。
国家が「国旗を大切に思え」と命じ、そうでない表現を「国民感情への侵害」として処罰し始めれば、国旗は国家の象徴ではなく、国家への服従を測るリトマス試験紙になる。
この法律の危険性は、明日からすべての漫画家が逮捕されることではない。
何が国旗なのかが曖昧で、何が不快なのかが曖昧で、どこまでが表現なのかも曖昧なまま、将来の拡張だけが附則に書き込まれていることにある。
そして私は、祝日に国旗を掲げることさえやめた。少し汚れたまま掲揚してしまった国旗を、誰かに問題視され、通報され、警察から事情を聞かれる。そんな可能性を考えたからである。
実際に処罰されるかどうかとは別に、近隣とのトラブルを避けるため、自分から掲揚をやめた。
この萎縮が、創作者にも起きる。
「国民感情」を理由に表現を処罰する社会は、創作文化にとって極めて危険な社会である。
必要なのは、感情を刑罰で守ることではない。国家や国旗を含め、あらゆる権力や象徴を批判し、笑い、描き、問い直す自由を守ることである。
それが失われたとき、傷つくのは国旗ではない。
日本の表現文化そのものである。